『HANA-BI』(1997)北野武監督

HANA-BI』は申し訳なさと贖罪の意識が強い映画です。


1993年の『ソナチネ』は生を否定する衝動が強烈な映画でした。『ソナチネ』は生の真っ只中にいる鮮烈な印象を与えます。

1994年に北野武監督がバイク事故に遭った後、作風が一変します。

1997年の『HANA-BI』は、北野映画の中でもっとも死に接近している映画にみえます。全体のトーンが低く、半死半生の世界にいるような感覚になります。


映画は、過去の悲惨な事件で一度は死にかけたタケシと大杉漣の話てす。生き延びてしまった2人は抜け殻のようになります。

男性社会の組織で生きてきた2人には、仕事の他に生き甲斐がなく、何もすることがない焦燥感と諦めの感覚が映画全体に漂います。


悲惨な事件の後にタケシに残されたのは、妻や友人に対する「贖罪の意識」。

妻と子供に去られた大杉漣は「新たな生き甲斐」を探します。

タケシは友人へ贖罪して回り、最後に妻との旅行に出ます。

大杉漣は絵を描き始めます。

しかしタケシの旅行も大杉漣の絵も、もうどこへも行けずに何もできないという諦めと行き止まり感しかありません。

また、タケシの旅先の出来事が大杉漣の絵に反映されたり、大杉漣の絵がタケシの旅先に飾ってあったりするので、タケシと大杉漣の感覚が繋がっているように描かれます。


タケシと妻の旅の描かれ方は、北野武映画では非常に珍しいものです。「タケシが女性と一緒に過ごすシーン」は他にほとんど見る事ができません。

そこで描かれているのは「愛」とか「パートナー」といった対等な関係ではありません。

二人の関係は「幼い妹を見守る兄」であり、また同時に「母に優しく見守ってもらう男の子」といった感じのものです。

岸本加世子は「母」であり「娘」として描かれます。つまり、自分に無条件に従ってくれて、かつ、何もかも許してくれる男にとって都合のいい存在です。

タケシは自らをマザコンだと言っているようにこれは見事なマザコン描写になっています(本当の意味でのマザコンというのはこういう事を言うのです。「ママーー」とか言う奴はマザコンではなくただ幼稚な子供です)。


これは一部でけっこう批判的に受け取られたようです(女性が自分では何もできない無力な存在としてしか描かれていない。女性が男性を慰めるための道具でしかない。男性の身勝手なエゴの道連れにされている、等)。


その批判はかなり真っ当なものだと思います。

しかしそうした批判がある事を知りつつ、それでもこの映画を肯定したいのはある種の誠実さを感じさせるからです。


変にカッコつけていい感じの旅行をして妻と和解して

「今までゴメンねこれからも一緒に生きていこうね」

「ううん、私の方そこわかってあげれなくてゴメンね。あなたも辛かったのね涙」

などといったぬるい欺瞞に満ちたカタルシスに落とさない。


この映画で北野武監督は「自分に従ってくれる優しい女がいないと孤独で生きていけない」とはっきり描いている。

その自分の身勝手な欲望のせいで妻が犠牲になっている。妻に罪滅ぼしをしたいがもうどうする事もできない。しかも一人きりで死ぬのは辛く苦しい。

このエゴイスティックで身勝手な欲望をしっかり見つめている事がとても誠実に思えるのです。


物語終盤のタケシと妻の旅行はとても気恥ずかしいプライベートフィルムを見せられているような気持ちになります。

徹底的に自己の弱い部分を出すための方法として、普段は絶対に見せない「女性と一緒に過ごすシーン」をたくさん入れているのだと思います。

このシーンこそが北野武監督が自分の弱い部分をさらけ出している所であって、自分の最も情けない部分を出している所です。

(あんなウェットなシーンを撮影スタッフが大勢いる中で演じるのは相当恥ずかしい苦行だったのでは、、)


ラストで自分の娘を登場させたのもかなりショッキングでした。


自分が妻を道連れにして死ぬ場面を、自分の娘に見ててもらう。


それを贖罪として描く。


これはちょっとどう捉えればいいのかわかりかねるところがあります。

通常の正しさとか倫理観を超えたものだからです。

しかしこうしたかなりグロテスクな欲望を率直に描き出す所が北野武の凄みだとは思います。

自分の娘に死を看取らせようとしているあたり、もしかしてこの映画は北野武監督が人生の総決算のつもりで撮った映画なのかもしれないと思えてきて感慨深いものがありました。