『3-4×10月』(1990)北野武監督

北野武監督が初めて脚本も手がけた作品のようです。そのため後の北野武作品を予感させる色々な要素がこれでもかと詰め込まれています。


突飛な印象のある映画ですが、起きる出来事をひとつひとつ見てみるとすべてフリがあってオチがあり因果関係もわかりやすいので、極めて丁寧かつ論理的に作られていることがわかります。


特に前半は丁寧に作られていて、じわじわと日常に暴力が侵入してきて止められなくなる様子が描かれます。日常のすぐそばに暴力があるというこの感覚がとても恐ろしいです。

北野武映画の初期作品にある、日常のすぐそばに暴力があっていつ何が起こるかわからない感覚はやはり恐ろしい。

アウトレイジ』も怖い映画ですが、ヤクザだけでなく普通の一般市民も同時に描いた本作もヤクザの恐ろしさが伝わってきます。


また前半は鮮烈な暴力描写も多くて何度もハッとさせられます。

北野武映画の暴力は突発的な暴力と言われますが、よく見るとちゃんとネタフリがしてあり、緊張感を高めるための準備が丁寧にしてある事がわかります。そしてそのネタフリと緊張感の作り方こそが優れているのだと思います。


例えば、ダンカンが仲間に言った「バカヤロー」を聞き違えて、自分の事を言われたと思う金髪のチンピラ。

チンピラはいきなりダンカンを殴ります。

しかしこの金髪のチンピラはその前にも登場していて、調子に乗ってヘルメットをかぶらずにバイクを飛ばして事故にあうヤンチャなやつとして描かれます。

とても短い場面なのですがこの前フリが生きている。


ダンカンに「バカヤロー」と言われてバイクから降りて来た男はピンクのヘルメットをかぶっていて顔が見えない。しかしヘルメットを脱ぐとあの金髪のチンピラであることがわかります。

ここでのヘルメットの使われ方がとても効果的です。

まずピンクのヘルメットと服の組み合わせが奇妙なのでちょっとヤバい奴が来たと思わせる。

ヘルメットを脱ぐまで誰かわからないので顔を隠す効果もある。

前に事故にあったあの金髪のチンピラなので、こいつは前の事故で懲りてヘルメットをかぶっているんだな、とわかる。

つまりこのピンクのヘルメットには少なくとも3つの要素が重ねられていて、ヘルメットを脱いで近づいてくるだけで多くの情報が読み取れるように計算されています。

こういうあたりが本当に丁寧な作りだと思います。


チンピラはいきなりダンカンに殴りかかるのですが、チンピラのパンチがなんか軽そう。それに対してダンカンの頭突きはとても重そう。このように暴力がキャラクターと一致しているところも本作の特徴だと思います。


ネタフリと緊張感が優れている場面でいうと、ガダルカナル・タカがスナックで客の女を灰皿で殴る場面があります。

あの場面で一番恐ろしいのは客の話をニコニコ話を聞くタカの顔です。

嫌な客の話をニコニコと聞くタカの顔を見ていると、こりゃーいくなと思わせます。

しかもその前の場面でヤクザとのいざこざで緊張感が高まっている。

そこにこの場面を持ってきているので、嫌な感じの客が入ってきた瞬間に、こりゃまずい、タカが暴力をふるいそうな予感がする。本当にうまい描き方です。


つまりこの映画で振るわれる暴力は、わりと納得のいく暴力というか、この場面でこのキャラクターならそうするよねと思わせるものがあります。それはネタフリと緊張感の高まりがきちんと準備されているからです。

突発的に見えるのはあくまでテンポの問題であり、キャラクターベースで考えると一貫性があることがわかります。



、、、と、前半はとても面白くこれはものすごい映画だと思わせるのですが、後半になるとかなり肩透かしをくらいます。

それまでとあまり関係がない別の映画が始まってしまうのです。


「ヤクザとの抗争もの」から「異世界観察もの」へ。

前半の主人公である柳ユーレイとダンカンはピストルを求めて「異世界」沖縄に行きます。

この展開は普通に考えれば、主人公がより危険な場所に行ってアイテムをゲットしてくるという神話的なものです。

主人公は「異世界」沖縄で死にかけるが、成長して東京に帰り真の英雄になるという神話的構造が意識されているはずです。

この映画のラストで、沖縄から帰った主人公の柳ユーレイは英雄的な行為(特攻的な自爆)を行うので、シナリオの構成的にも沖縄は主人公が危険をおかして死にかける場所として設定されているはずです。


しかし沖縄編になると、主な話はタケシと渡嘉敷が沖縄ヤクザと争う話になり、ユーレイとダンカンは基本見てるだけでほぼ何もしない。前半の話と関係ない話になってしまいます。


沖縄編のちょっとボヤンとした感じは、主人公が役割を果たしていないところから来ていると思います。

沖縄の描写も、映画前半の極めて論理的な作りとはうって変わって、曖昧で感覚的なものが入ってきます。このあたりも夢のような感覚を起こさせる原因です。

(東京は論理的に描き、沖縄は感覚的に描くというように描き方を変えています。こうした描き分けができるところはとても理知的な監督なのだと思います)


前半と後半で映画が繋がっていないのですが、それがいわゆる物語の解体を目指したものなのか、スカしのギャグなのか、あるいは前半の東京と後半の沖縄を重ねて反復させようとしたのか、ただ単にベタに物語を語ることに照れているのか、ちょっとよくわからないところではあります。

しかし沖縄の描写が「異世界」にふさわしい鮮烈なものなので、話とは関係ないけどなんかとても良いものを見た気がしてしまいます。

東京の描写との対比もあって「異世界」にいる感じを強く与えます。

何よりタケシと渡嘉敷がなんかギラギラしててヤバい感じがする。東京の人間とは別の理屈で動いていて話が通じない感じがする。とにかくヤバい奴感はすごいです。


映画全体で見ると前半と後半で違う話をしており、ちょっとバランスの悪いいびつな作品ではありますが、それを含めて若々しい鮮烈な印象を残す作品でもあります。淡々としているように見えて生のエネルギーが溢れている。

そして同時に高度な論理性と知性を感じさせる。ユーモアはいうまでもなく素晴らしい。自分をもっともグロテスクな怪物として描く客観性も持ち合わせている。



現在の地点から振り返ると、このバランスが悪く荒々しいがエネルギーは溢れている初々しい感じが、映画を撮り始めた北野武の初期衝動の貴重な記録になっていると思います。